セルロイドサロン
第93回
松尾 和彦
下町とセルロイド



 下町とは何とも魅力的な言葉です。決して豊かではないが本音の付き合いをしていて、困った時にはお互いに助け合って生きているといった暮らしが見えてくるような気がします。

 東京で下町と言えば上野、浅草などがある台東区、川向うとも言われる墨田区、江東区、さらに川を越える足立区、葛飾区、江戸川区などが頭に浮かびます。

 寅さんでお馴染の柴又も葛飾区、まさに下町の名所です。



 この下町に集中している町工場は技術力の宝庫で新幹線、飛行機、人工衛星、携帯電話などは下町の力が無いと生まれなかったものです。技術力といいますとコンピューターや最新の機器を駆使したハイテクを思い浮かべるのですが、実際には職人の経験によるローテクが主なものです。

 セルロイドに例を取りますと加工するときの温度は83~90℃という実に狭い範囲で行わないといけません。職人さんは、この微妙な温度を計器ではなくて手で触って確認しているのです。その次に行うプレス加工も力の加減を細かなバネの調整で行っているわけですが、これも職人さんの経験が頼りです。



 このような技術力は一朝一夕で生まれるものではありません。では下町はどのようにしてセルロイドと関わりあってきたのでしょうか。

 実は日本で最初のセルロイド生地工場も下町で生まれました。明治二十二年(1889年)西沢幾次郎は東京向島中之郷に昇光社を設立しました。工場長の小蝶六三郎は布屑を加工して硝化綿を製造していたのですが、学術的知識が乏しい時代でしたので火災に見舞われて僅か三年後に解散することとなりました。

 堺と網干に大規模なセルロイド工場が設立された明治四十一年(1908年)には、田島紋吉が日暮里に小さな工場を作って壺式によって硝化綿、コロジオンの製造を行いました。この小さな工場こそが現在の太平化学製品の始まりです。

 浅草の神谷バーとレストランと電気ブランという強めのお酒をご存じの方も多いと思いますが、神谷バーの神谷伝兵衛も亀戸のセルロイド工場に出資していた時期があります。この工場は不良品の発生、事故の多発などによって経営は順調ではなかったのですが、その後持ち返して大成化工となっています。



 下町とセルロイドとの関わりは、このような生地生産よりも加工のほうにより強いものがあります。

 頭飾り品、櫛、湯桶、洗面器、筆入れ、裁縫箱などの日用品も数多かったのですが、裸人形、カチューシャ、パープー、キューピー、塗りこみ人形、各種動物、ガラガラなどの玩具が数多く生産されました。

 セルロイド玩具製造が本格的に始まったのは、大正三年(1914年)寺本圭助が亀戸にローヤル商会化工場を設立してからとなっていますが、明治期に既に風車、蝶々、吹上げ玉、起き上がり、ガラガラなどが売られていたことからすると、実際にはもっと早くから製造されていました。

 この大正期のセルロイド加工業の躍進振りには目を見張るものがあり、東京セルロイド同業組合が設立された大正五年(1916年)に二八二名だったものが、三三一名、四三四名、四八七名と増加していき大正九年(1920年)には六○○名に達しました。

 このように増加していった理由はセルロイドが、それまでの木・竹・紙・泥などと比べてはるかに美しく、軽く、清潔で、どのような形にでも加工できるという優れた特徴を持っていたからです。また当時、ヨーロッパ全土が第一次大戦の戦火に覆われていたために、日本に注文が殺到したのです。いくら作っても注文はやってきて儲かるという時代でした。プレス機が一台あれば一日に百円の儲けが出ました。また一台につき一日に二貫ぐらいの屑が出ましたが、これが一貫につき十八円で売れました。合計で百三十六円です。

 この数字がどれほど凄いかというとお米一升が四十銭、親子四人の一ヶ月の生活費が三十円程度ですから、四ヶ月分以上の生活費が毎日入ってくるのです。昭和の終わりから平成の初め頃に日本中が浮かれたバブル景気どころの騒ぎではありません。こんな日々が続いたら金銭感覚が麻痺してしまいます。

 もちろんこんな時代が長く続くわけがありません。第一次大戦が終わると未曾有の好景気は一転して大不況となり、倒産、夜逃げが相次ぐということになりました。しかも関東大震災に見舞われてしまいました。大正期はセルロイド業界にとって動乱の時代となったのです。



 昭和初期は銀行の取り付け騒ぎが起きたり、失業者が街にあふれたりという不景気な時代でしたが、セルロイド業界は重要輸出品に指定されたこともあって、世の動きとは違って好況でした。昭和二年(1927年)の調べによると玩具・二六五名、雑貨眼鏡枠・一二二名、櫛頭飾り品・三九五名、合計七八二名でしたから大正期よりも増加しています。

 これらの業者は浅草、下谷、日本橋に多く、玩具や雑貨は日暮里、尾久、寺島、吾嬬、隅田、大島、上平井、亀有、奥戸、本所、小松川、千住、王子方面に広がっていましたから、何れも下町です。

 その中で忘れていけないのが四ツ木です。今では葛飾区となっていますが昭和の初め頃は南葛飾郡と言われて、駅前でさえ田んぼが広がっているという田園地帯でした。

 その農業地帯に点在する古い農家や新しく出来た住宅にトタン葺きの下げ屋があり煙が立ち上っているとなると、間違いなくセルロイド工場でした。

 このような場所に作られた理由は燃えやすいからなるべく人家から離れた場所を求めたのです。万一、火が付いた時には窓から投げ出せば周りが田んぼですから消えます。土地の有力者が先ず加工を始めて下請けをやらせ、次にはその下請けも独立していく。このサイクルによってセルロイド加工業者が次々に増えていきました。



 東京中が焦土と化した第二次大戦ですが、四ツ木方面は都心から離れていたこともあって空襲から免れました。設備はあったのですが、肝心のセルロイド、加工に必要な石炭、電気、溶剤など総てのものが不足していました。そのため細々としか生産できませんでしたが、日用雑貨が何年も生産がストップした後ですのでどんなものでも売れ、比較的早くに復興することが出来ました。

 下町、特に四ツ木を始めとする葛飾に打撃を与えたのは戦争よりも台風でした。昭和二十二年(1947年)のカスリーン台風によって二十日余りも水浸しとなり、その後も一ヶ月というもの生産が出来なかったのです。



 このような打撃はありましたが下町は持ち味の逞しさを発揮して生き残りました。そのセルロイド業界に決定的な衝撃を与えたのが塩化ビニールの登場でした。セルロイドの燃焼性が問題視されているところに触感、柔らかみ、色艶などが優れていて不燃性であるという特性を持つ塩化ビニールはセルロイドを駆逐する形となりました。

 皮肉なことですがセルロイド業界を救ったのも塩化ビニールで、品質の良い製品を作るようになったことで需要が高まり輸出も増えていきました。昭和三十一年(1956年)には十余りしかなかった加工業者が翌年には一○○、さらには一五○と増えていきました。ということは一方ではセルロイドは扱わないということになります。セルロイド業界の団体も消えていき、製品もピンポン玉、ギターピックなどの限られたものとなっていきました。



 ところが最近、復活劇があったのです。プラスチック成型を行っている協立製作所の奥山社長は、かつて四ツ木などで修行を積み二十年程前まではセルロイドを手掛けていました。その奥山社長のもとに友人でもある三栄工業の社長から「もう一度、セルロイド雑貨を製造してみないか」との話が持ちかけられました。

 この話を引き受けた奥山社長は古い金型を引っぱり出したり、昔の仲間からセルロイド専用の機械を譲ってもらったりして二十年振りにセルロイド雑貨の製造を再開しました。商品には「カツシカセルロイド」のシールが貼られて販売されています。

 その奥山社長のところに京都の老舗から子供用の針箱が作りたいとの依頼が舞い込んだのです。また製品を見たかつての仲間達からも称賛されました。



 他にも下町と言えば以前にも紹介したことがあります渋江公園の記念碑、モンチッチでお馴染のセキグチドールハウス、ミーコ人形の平井玩具製作所など魅力的なスポットの数々がありますので、下町散歩としゃれこんでみるのも楽しいでしょう。




著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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