セルロイドサロン
第92回
渕上 清二
湖国・近江とセルローズのこぼれ話



 昨年9月、地元新聞は、湖国・近江の日本基督教団・大溝教会で明治後期に造られた国産のオルガンが50年ぶりに修復され、明治時代の音色が再び奏でられたことを報じた。このオルガンは、明治から大正初期にかけてオルガンの製造を手がけた「辻ピアノ・オルガン製造所」製のものであるが、近江大溝藩最後の藩主(第12代目)で、同教会の創立者でもある分部光謙(1862〜1944年)が宣教をはじめて100周年を迎えることを記念して修復されたのである。辻オルガンは現在では国内で数台しかない貴重なものであるが、この記事で目を引いたのは鍵盤がセルロイド製であったことである。最高級の白鍵は象牙であり、現在はワシントン条約によりアクリルが主流となっているが、この間、セルロイドが象牙の代用品として使用されていたのである。辻ピアノ・オルガン製造所の工場は大阪府岸和田にあり、府内の生野や東大阪などのセルロイド工業地帯が辻ピアノ・オルガンの製造を支えていたのであろう。

 大溝教会のある高島市は、幕末から明治初期にかけて活躍した近江商人(高島商人)を代表する豪商小野組の出身母体の屋敷跡地が残存している。近江商人とセルロイドとの関わりについては、これからの研究成果を待たなければならないが、『愛知川町の近江商人』(2005年、愛知川町立図書館発行)によれば、明治・大正期に独立店舗を経営した愛知川町出身の商人一覧表の中にセルロイド製造として久保田嘉蔵(1914年創始、東京市本所区)、同じくセルロイドとして林和蔵(1914年創始、愛知県名古屋市中区)の名があるほか、『近江人要覧』(1934年、駒井喜一著、近江人協会発行)には奥村八五郎(1889年生、野洲郡守山町・現守山市出身、大阪市南区順慶町応1丁目)がセルロイド生地及び加工品製造業者として、工業組合理事、同業組合評議員として活躍している旨の記載があり、近江商人の中にセルロイドと関わりをもつ者がいたことが推察される。

 セルロイドは、大量生産により安価な玩具類の普及を促進させた半面、全国の郷土玩具や伝統的人形の衰退をもたらしたが、近江商人の発祥地のひとつ五個荘の小幡で作られていた伝統的人形「小幡でこ」もその影響を諸に受けている。「でこ」とは、土人形のことであるが、江戸時代から明治時代にかけて「でこ」と呼び、五個荘小幡で作られる「でこ」を「小幡でこ」と呼んでいるのである。「小幡でこ」は中山道を行き来する人々の土産玩具として伏見人形の製法に倣った色付け人形であるが、節句人形をはじめ祭りのみこし、縁起もの、風俗人形、軍人など約400種類にのぼるといわれている。

 「小幡でこ」といえば、生涯をグリコのオマケ作りにかけた「おまけ博士」で、『ぼくは豆玩(おまけ)』(1991発行、山三化学工業)の著者である宮本順三氏(1915〜2004年)を取り上げねばならない。宮本氏は、大阪市生まれであるが、彦根高商(現滋賀大学)卒であり、同著で「高商在学中も郷土玩具の蒐集を続けていた。旅先で求めた物や人からもらった物も含めてその数は大変なもので、下宿の部屋が再び玩具で埋まってしまった。伏見人形の流れをくむ近江の小幡人形が廃絶寸前と聞いて、店頭の物を買い集めたこともある。」、「これら(グリコ)のオマケのヒントになったものの中には、子供の頃から興味を持って集めていた郷土玩具がある」と語っている。グリコのオマケにはセルロイド製のものもあるが、オマケのヒントに一役買った「小幡でこ」があるものと思われる。

滋賀大学は、今も近江商人の研究が盛んであるが、宮本順三氏が在籍していた彦根高商時代も、菅野和太郎教授を中心に共同研究が進められ、その後任教授で近江商人研究の名著『小野組の研究』の著者である宮本又次氏は順三氏の実兄である。

近江商人とセルロイドといえば、近江商人系百貨店「白木屋」の大火災が思い起こされる。白木屋は、1662(寛文2)年、近江の材木商・大村彦太郎が江戸日本橋に呉服反物の類の販売を主とする店を開いたのが始まりで、やがて日本を代表する百貨店となるが、1999年1月31日、東急百貨店日本橋店として閉店し、その336年の歴史に幕を閉じたことは記憶に新しいところである。東京日本橋に日本初の百貨店ができたのは、1904年、呉服屋(越後屋)から転身を遂げた三越呉服店(三越)であるが、白木屋の創業は三越の創業(1673=延宝元年)より11年も早いことから、湖国・近江では白木屋を日本初とする場合があるのである。

明治時代に入ると、白木屋は服装の洋装化の波にも乗り、洋服部も開設し、三越等とともに百貨店として発展し、1911年には、百貨店初のエレベータと開店ドアを設置するなど先進的な取り組みで知られ、昭和初期に完成した店舗は、クラッシック様式の三越の向こうを張って華麗なアールデコ調の装飾で彩られたデザインとなっていた。しかし、完成間もない1932年12月、4階のおもちゃ売り場で歳末・クリスマスの飾り付けの作業中に電球がショートし、当時玩具の主流であったセルロイドに燃え移り4階から7階まで全焼した。14人の店員等の死者を出す大惨事に見舞われた原因説には異論もあるが、一般的には当時の女性が着物の下には下着などをつけておらず、火事から逃れるとき、下から見られるのを恥じて逃げ遅れたものとされ、この火事を境に日本の女性の間で下着が普及することになったとされているのである。

白木屋は、大火災後も改装されて営業を続けたが、1956年、東急急行電鉄(東急)の傘下に入り、2年後には東急傍系の東横百貨店と合併するも、「白木屋」の店名は1967年に東急百貨店日本橋店となるまで残ったのである。

白木屋日本橋店の店定に1796(寛政8)年頃のものと推測されている『永禄』がある。油井宏子氏(NHK学園古文書講師)によれば、奉公人達が遵守すべき52カ条の規則が定められており、購入の多少にかかわらず、「物買衆」(お客さま)は、とても大切にするように。少量の場合も「人相よく」(愛想よく)懇ろのあいさつが当然、商品の取り扱いは丁寧に。年若い奉公人には十分に指南すべきである。奢り高ぶった心がないように、家訓定法を守る、外出するときには、店に断って出るように。その際、公用(店の用事)か私用かをきちんと告げる。公用だと言って、私用を済ませてはいけない、お互いに金銭を貸借することは、少額でも禁止など、現在にも通用する商売の基本や極意が盛り込まれている、とのことある(『永禄』に関する資料は、ネット情報「江戸東京博物館友の会第54回セミナー『奉公人の犯罪取調帳〜白木屋『明鑑録』」による)。

また、わが国の国際企業を代表するソニーが、白木屋日本橋店舗の一角にて創業したこともよく知られているが、同社の設立趣意書の経営方針には「不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重キを置キ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ワズ。・・・・」とある。近江商人の家訓には、西川甚五郎家の家訓「諸相場一切禁制之事 仮令舟間之節に到るとも余分に口銭申請間敷事(商品輸送のための舟が到着せず、現地品薄のときといえども余分な利益を要求してはいけない)」をはじめ不道徳な商行為(不当なる儲け)を堅く禁じたものが多く、「良い品物をより安く」が近江商人の商いのモットーであるが、ソニーの創業者達には、「白木屋」を通じて近江商人の経営理念の真髄を肌で感じるものがあったのではなかろうか。





<略歴>

1949年1月生、大阪経済大学経済学部卒後、びわこ銀行に勤務。2009年1月、同社退職。現在、日本金融学会会員、金融法学会会員、NPO三方よし研究会会員、銀行経営、金融法務、近江商人等に関する著書、執筆
主な著書『近江商人の金融活動と滋賀金融小史』『近江商人ものしり帳』『管理者のハンドブック』ほか『びわこ銀行五十年史』『第二地方銀行50年史』の編纂に携わる。


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