セルロイドサロン
第75回
松尾 和彦
赤電車・青電車


 最近、路面電車、所謂チンチン電車に乗られたことがありますか。電車と比べると大量輸送能力は無くスピードも遅い。自動車のように機動性があるわけでもないということで、高度経済成長期に入ると路面電車は廃止が相次ぐこととなります。かつて六十を越える町に走つていたのが三分のーの二十となり、残されたところでも縮小されました。代表的なのが四十系統、二百十キロ余りが走っていた東京の市電で、今では十二キロほどの荒川線一つとなっています。それでも東京の市電(現都電)は残ることが出来ただけ幸いで仙台、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡などの市電は全廃されてしまいました(一部市電とは違う形態で存続している街もあります)。

 路面電車は庭先から庭先といった手軽さがあり、スピードも人間本来の感覚に近いものです。また時間に正確で各電停の間隔も短いので町歩きにはもってこいです。そして建設費用、維持管理費用の安さから最近では見直されてきています。東京の都電でも池袋方面へ支線を延ばすという計画があるようです。



 この路面電車にもセルロイドが使われています。計器盤やバッテリーケース、さらに右左折する時にウインカーの役目をしていた矢羽根のようなものなどですが、その中で面白い使われ方をしている話があります。

「いそいで尾張町(銀座四丁目)の交差点まで来ると、ちょうど青電車が明るい光を散らしながら走っていった。やっと間に合ったと言いながら、青山行きの赤電車を待つことにした。その頃の市電は夜が更けると方向板の電球の前に、音と赤のセルロイドの坂をはめる仕組みになっていた。
青い板をつけると「この次は終電車」、ついで赤い板をつけると「終電車です。これでおしまい」という合図になっていたのである」(「青蛙房刊 多賀義勝著 大正の銀座赤坂」より)

 この赤電車・青電車の習慣は東京の市電だけではなかったようで、広島では今でも内部の用語で「あか・あお」と呼んでいます。また鹿児島では表示板のところに赤、青の電球を点けて「最終電車」「その一つ前」としていました。
 他にも高知では最終は赤地に白字、それ以外は白地に黒字の行き先表示とするなど、それぞれに工夫していたようです。



それでは路面電車の走る街を幾つか紹介することといたしましょう。



札幌

かつて日本で最北の路面電車は旭川の市電でしたが廃止されてしまいましたので、今では札幌の市電が最北となっています。

 ここの市電は少し変わったルートを走っていて、北海道最大の繁華街である「すすきの」電停を発車して時計回りに札幌の町を走ると終点が「西四丁目」電停です。ところがこの始発と終点とが目と鼻の先なのです。これぐらいの距離なら延伸して繋げれば効率的だと思うのですが、実は昔は繋がっていたのです。縦横に走っていた市電を次々に廃止していき最終的に残ったのが、このような不自然な形です。もう一度、この三百メートルほどの間を繋いでもらいたいものです。

 時計台、旧北海道庁舎、ラーメン横丁、狸小路、藻岩山などといつた札幌の観光名所を巡るために最適な交通手段が市電です。



函館

 函館は幕末に横浜、神戸などとともに開港した古い港町なのでハリストス正教会、旧函館区公会堂、旧北海道庁函館支庁舎、旧イギリス領事館等の洋館が立ち並んでいます。また洋風の城である五稜郭はあまりにも有名です。

 これらの観光名所を巡るにもってこいの交通機関が函館の市電です。そしてここには何と明治生まれの車両が走っています。元は千葉の成宗電軌で使われていた車両です。成宗電軌は「成」田−「宗」吾を走つていたのですが、戦争が激しくなつた1944年(昭和十九年)に廃止されました。そして電車だけが函館で働いているわけです。



東京

 東京はかつては山手線の内側は総ての道を走っているほどの日本一の路面電車の街でした。
荒川線だけが残ったのは専用軌道が長かったのと他に交通手段が無かったからです。

 早稲田から三ノ輪までの間の沿線は何れも肩肘を張らなくて歩いていける庶民的な街です。大学のある「早稲田」。大田道灌由来の山吹の里として知られる「面影橋」。すすきみみずくが有名な雑司が谷の「鬼子母神前」。サンシャイン六十が近くにある「東池袋四丁目」。とげ抜き地蔵に向かうお婆ちゃん達の利用する「庚申塚」。江戸時代からの花見の名所「飛鳥山公園」。お稲荷さんの「王子駅前」。関東の駅百選にも運ばれた「三ノ輪橋」といったぐわいに見所一杯の魅力的な路線です。


 東京にはもう一つ東急電鉄世田谷線という路面電車があります。下高井戸から三軒茶屋を結んでいる世田谷線は、その路線が午後三時に似ているため「昼下がりの電車」とも呼ばれていますが、その名前の通り何となくほつとする雰囲気のある路線です。

 東急はかつて渋谷から二子玉川までを結ぶ玉川線、通称玉電を走らせていました。その独特の形から芋虫電車、玉子電車、ぺこチャンなどと呼ばれて親しまれたのですが「高速道路を走らせる」という理由で廃止されてしまいました。支線であった世田谷線が存検したのは高速道路の路線から外れていたためでした。

 高速道路から外れるような場所ですから招き猫発祥の地として知られる豪徳寺。ぼろ市で知られる代官屋敷。吉田松陰を祀った松陰神社。江戸五不動の一つ目青不動の経学院など、路線の形のように落ち着いた昼下がりといった名所の多い路線です。



富山

 路面電車が二つある場所はニケ所しかありません。前述の東京と残り一つはその時に話します。
ところが富山県は三つあるのです。このような県は後にも先にも富山だけです。

 富山市を走っている路面電車は、南富山駅を発車すると新鮮な魚介類ならここという、「きときと市場」、富山一の繁華街である「総曲輪商店街」、富山駅前から「富山城址公園」、官庁街の「丸の内」をつないで「大学前」まで走ります。


 途中にある「新富山」という電停からは今では廃線となった「射水線」という鉄道線が分岐していました。ところが途中に富山新港が出来たために電車一渡し舟−電車と乗り継がないといけなくなってしまいました。そのために東側(富山寄り)は廃止されてしまいましたが、西側(高岡寄り)は「加越能鉄道」として生き残りました。こちらのほうも廃止されるところだったのですが「万葉線」という路面電車としては最初の第三セクターとして再出発したのです。
「万葉線」という名前に決定したのは、「万葉集」の選者として知られる大友家持が、この地の国守であったがためです。

 この沿線には、かつての練習帆船であった「海王丸」。勧進帳の元となった話が伝わる「如意の渡し」。日本有数の大きさを誇る「高岡大仏」など見所が一杯です。

 富山港線は一般の鉄道路線だったのですが、ニ○○六年(平成十八年)四月二十九日より第三セクターの路面電車となりました。すると一日当たりの利用人数が三倍近くになったのです。廃線寸前のところが路面電車化によって救われたという例ですので、利用客が減っている路線を抱えている電鉄会社は富山港線を参考にされてはどうでしょうか。



福井

 福井の路面電車は少し変わっていて各停だけでなく急行や準急があります。電車そのものも変わっていて路面電車というよりも、一般の鉄道を走っている車両そのものです。静岡鉄道や名古屋地下鉄の車両を再利用しているのですが、乗り降りのときには床が高いために折りたたみ式のステップが開きます。中も路面電車で一般的なロングシートではなくて四人掛けのクロスシートとなっています。

 路線は越前鉄道の「田原町駅」から北陸本線と平行した感じで「武生新」の停留所までと長く、生活路線、観光路線、通勤通学路線として活躍しています。



広島

 日本で最大の路面電車の街は何と言っても広島で八系統三十五キロが、それこそ広島の町中至るところを走っています。

 広島と言えば世界で最初に原爆攻撃を受けた悲劇の町ですが、何と被爆から三日にして路面電車を走らせたのです。従業員は四割が死傷、電車は九割以上が全半壊、レールも停留場もほとんどが壊れてしまうという壊滅的な被害を受けながらの復旧の早さは驚くとともに、賞賛に値します。

 広島はこのような町ですから、路面電車の無い生活は考えられません。また五両連結の超低床車という他では見られない車両に出会うことが出来ます。



松山

 四国で最大の町松山ではSLが道路を走っています。「まさか」と思われるかもしれませんが本当のことで「坊ちやん列車」という名前のSLがシュッシュッという音を立てて白煙を吐いて走っていきます。そしてそのSLが終点に来るとクルリと方向を変えて反対方向に走り出します。

 種を明かせばSLの形をしたディーゼル列車で、方向転換するのもジャッキで持ち上げて人力で廻しているのですが、かなり驚かされる光景です。

 松山と言えば坊ちゃんと道後温泉ですが、この「坊ちゃん列車」はもちろん道後温泉まで行って終点となります。



熊本

 富山のところで路面電車が二つあるのはニケ所しかなくて一つは東京だと言いましたが、残る一つがこの熊本です。

 熊本の市電はエアコン車、超低床車両を日本で最初に導入したり、レトロカーや転換クロスシートを取り入れたりと、バス路線の多い町で生き残るために必死です。

 生き残りの努力を行っているのは、もう一つの路面電車を運行している熊本電鉄も同じことで東急東横線、都営三田線に出会うことが出来ます。もちろんそれぞれの路線を走っていた車両が使われているという意味ですが、初めて行っても懐かしさを覚える風景です。



 なお余談ではありますが、アルゼンチンの首都ブェノスアイレスへ行くと丸の内線がやってきます。中も外も昔のままで日本語の宣伝などがあって驚くこと必至です。

 このように昔に比べると減ったとはいえ、路面電車はまだまだ健在です。この他にも豊橋、高知、岡山、長崎、鹿児島などの町を走つています。セルロイドの使用が減るのに比例した形で、路面電車も減少していったのは寂しい限りですが、先に申し上げましたような使い方をしていたのです。



 今度、先に挙げました町を訪れる機会がありましたらぜひ路面電車に乗車するようにしてください。ただしセルロイドは持ち込み禁止です。乗降口のところを注意してみますと、葉書ぐらいの大きさの真鍮板に持ち込み禁止の品としてガソリン、大量のマッチなどとともにセルロイドも書かれていますので、注意してください。


著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。

連絡先: セルロイドライブラリ・メモワール
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