セルロイドサロン
第71回
松尾 和彦
グリーティングカードの歴史とセルロイド


 グリーンティングカードと言う言葉を訳すと「挨拶状」となります。しかしこれではあまりにも直訳過ぎて感じが出ません。

 グリーティングカードには年賀状、暑中見舞い、クリスマスカード、誕生カード、結婚カードなど様々なものが含まれます。

 この歴史を見ていくとともにセルロイドが如何にして関わっていったかを説明することといたしましよう。



 グリーティングカードの原型となったものは、四千年前のエジプトで新年のお祝いとして贈られたスカラベを象ったものだと言われています。

 スカラベという言葉は、ファーブルの昆虫記で御馴染みのクマオシコガネのことです。もっともこの虫は、別名の糞転がしのほうが有名です。

 牛や羊などの糞を転がしていくユーモラスな姿は、卵を産むために運んでいるものです。獣糞の中から虫が生まれてくる姿にエジプトの人々は再生を感じたのです。その結果、スカラベは神の一つとなり幸運の護符として人々に親しまれました。

 そのため「oudja ib k:ご多幸をお祈りします」との言葉を刻んで贈りました。

 余談ですが、スカラベはすーストラリアに導入されています。ご存知の通りすーストラリアは、人間よりもすや羊の数が多い国ですので、糞の処理は重大な問題となっています。オーストラリアには糞を分解して自然に戻す生態系が乏しく、このままでは糞が溜まってしまいます。ここで日をつけられたのがスカラベでした。こうしてスカラベを移入することとなったのです。

 ただし導入されて日が浅いのと、広大な国ですから今のところ成果はまだ芳しくないようです。



 話を元に戻しましょう。エジプトの次にグリーティングカードに相当するものが現れたのは、古代ローマです。

 新年に役人が皇帝に贈り物をしたのですが、当初の果物、蜂蜜などが素焼き土器のランプ、果物の絵のある粘土製の書す板、「新年のお喜び」といった銘が入った粘土の彫像、メッセージ入りのメダルなどを贈った記録が残されています。またそれらが遺跡から出土することで事実であることが証明されます。

 中世のドイツでは新年に礼挿画を贈る習慣がありました。題材になったのは主に幼児姿のキリストで「Ein gut selig Jar」(幸せな良いお年を)と書いて渡されました。この時代はクリスマスと新年を一緒に祝っていたのです。

 バレンタインデーが一般に広まり始めたのはす七世紀の始め頃からだとされています。この祭りの始まりは古代ローマのルベルカリア祭だとされています。この日、男性はくじ引きで当てた女性と祭りの間中一緒にいてもよいとされていました。

 二月十五日だった祭りが一日早くなったのですが、その頃は男性から女性に贈り物をする日でした。

 今のように女性から男性ヘチョコレートを贈るようになった由来につきましては、古田製果説、モロゾフ説、ゴンチすロフ説などがあり、確定的なことは言えません。この日本特有の習慣が何時の間にか韓国にも伝わっています。

 欧米では今でもカードのやり取りを行っていますが、チョコレートを贈ったり、一ケ月後をホワイトデーなどど呼んだりはしません。



 名刺は十八世紀の後半頃にヨーロッパで始まったとされていよす。その頃の使い方は今のように初対面の時に自己紹介をしながらやり取りするものではなくて、訪問先が留守だった時に時候の挨拶を書いて残していくものでした。

 このカードは主にオーストリア、ドイツ、フランスで盛んにやり取りされました。


 1815年−1848年のドイツ、オーストリアをビーダーマイヤー期と呼びます。このビーダーマイヤーとは「正直者のマイヤー」と訳されますが、実際はそのようなものではなくて時の政府(プロシア王国、オーストリア帝国)の都合の良いように動く人間のことです。

 この時代は何もかもが型に嵌められてしまいました。例えば有名なグリム童話の茨姫(眠れる森の美女)の話は、元はと言えば茨姫は眠っている間に王子に犯されて双子を生むというものでした。
ところがビーダーマイヤー期に王子のキスで目を覚ます、と書き換えられたのです。

 この辺りの話をよとめた「本当は怖いグリム童話」がベストセラーになったのは記憶に新しいところです。
 この時代にカードの手法が長足の進歩を遂げました。立体的に飛び出したり、レバーを動かすと光景が変わるような手法も用いられるようになりました。花、花瓶、野菜、果物、パン、ケーキ、鳥、手押し車、駅馬車、帆船など多岐に渡る図柄が使われています。



 クリスマスカードが本格的になったのは1840年代のイギリスで、王立美術院会員であったジョン・C・ホースリーが1846年に石版印刷を用いて厚紙に千枚印刷しています。

 またヴィクロリア&アルバート初代館長だったヘンリー・コールは、1843年に親類友人知人に手当たり次第に千枚ものカードを贈っています。

 この時にはセピア色一色だったのですが、1860年代に印刷技術が進歩して、70年代以降には種類も増え思いつく限りの人々にカードを贈るようになりました。

 同じ1840年代にアメリカでは、マサチューセッツ州のエスター・ホランドがカード製作会社を設立しています。またルイス・ブランクは1874年に亜鉛板を利用した印刷術を用いて、クリスマスカードをイギリスヘ輸出しています。

 需要のあるイギリスと供給を行うアメリカとの関係が出来上がったのです。



 誕生日カードは19世紀半ば頃にアメリカ、イギリスで僅かに贈られていたものですが、当時は花や景色などの簡単なもので、バレンタインカードと同じ物を文面を変えただけでやり取りしていました。このカードが1885−1895年頃には絹のヘリ飾りの付いたものとなっていったのです。



 その他のカードとしては、イースターカードはイギリスでは1862年以降、アメリカでは1906年以降に盛んになりました。

 最近では外国人による傍若無人な馬鹿騒ぎばかりが有名になってしまっている十月三十一日、すなわちハロウィンはケルトの暦で大晦日にあたります。子供達は様々な姿に変装して「Trick or Treat(お菓子をくれなきや悪戯するぞ)」と叫んで各家庭を廻るのです。この日のカードがやり取りされるようになったのは1910年代でした。

 母の日のカードは1912年から、父の日は1920年から、やり取りされるようになったとの記録が残されています。



 このようなカードが飛躍的に伸びたのは二度の世界大戦でした。戦場に行った父や兄弟の無事を願い、また戦場にいる者からは家族に無事を報せるためにカードのやり取りをしたのです。その数があまりにも多かったために、第二次大戦中には一時中止の措置が出されたことかあります。この時に兵士達は、コンビーフの缶の蓋、骨、金属、硝子、コルク、シルク、リネンなどに書いて贈りました。こうまでして家族に自分の無事を知らせたかったのです。

 中止せよとの決定が大変な不評を買い、直ぐに廃止されたのも当然のことと言えるでしょう。



 グリーティングカードの種類としては新年、バレンタイン、セントパトリックデー(三月十七日)、イースター(春分後の最初の満月の次の日曜日。2007年は4月8日。東方教会と西方教会とでは計算方法が違うために年によっては両教会で日が違う)、卒業祝、サマーカード、ハロウィーンカード、アドヴェントカード(クリスマスまでの四週間にやり取りするカード)、クリスマスカード(日本の感覚とは異なっていて、十一月の第四週のサンクスギヴィングデーの後から大晦日の間なら何時出しても良い)などが主なものとして挙げられます。



 このカードにはどのようなものが使われたのでしょうか。もちろん最初は紙です。ペーパーの語源となったパピルス、羊皮紙、木簡、竹簡、ヤシの葉などが使われていたのです。

 紙の発明は105年に後漢の蔡倫によって成されたと言われてきたのですが、紀元前二世紀頃の前漢の遺跡から発見されるに至って、発明者ではなく改良者だと言われるようになりました。



 カードを大量に作るためには印刷術が必要になります。火薬、羅針盤とともにルネサンス三大発明に挙げられているグーテンベルグの活版印刷術も「発明した」のではなく、中国からイスラム世界を通ってイベリア半島から伝わったものを「改良した」と言われるようになりました。

 このカードを豪華なものとしたのが象牙でした。加工性に優れている象牙は薄く紙のようにすることも出来ました。象牙にペン字で独特の書体で書いたものが最高級品とされました。

 しかし象牙は高価なものであった上に、象三頭につき二人と言われるほど多数の犠牲者を出しました。そこで考えられた代替品がセルロイドです。

 ご存知の通りセルロイドは、ビリヤードボールとして使われていた象牙の代用品として作られたものですから性質が似ています。使われるようになったのは十九世紀の終わり頃から二十世紀の初め頃だと思われます。この頃、女性用のコルセット、男性の襟カラー、カフスなどにセルロイドが使われていました。

 シート状に加工する技術がカードにまで応用されるようになったのです。また1890年にアメリカニュージャージー州のジョセフ・フランスが、シートとシートの間にカラー印刷を挟み込み熱圧着する技術を開発しました。これにより華やかなものとなるとともに、種類が飛躍的に増えました。

 そしてまた第一次大戦という要素がありました。この時にアメリカは途中まで中立国だったのですが、やがて参戦することとなりました。女性達もコルセットを外して兵隊に行くこととなりました。帰還後には二度と体を締め付けるような窮屈さに戻りませんでした。

 こうなるとシート状のセルロイドが大量に余ります。思いついた転用先がカードだったわけです。



 このセルロイドカードに着目した人々は、まだ数が少なくセルロイドハウスは恐らく日本で最大のコレクションだと思います。



 今ではカードではなく、メールをやり取りするようになっていますが、やはり節目となる日には自筆のカードを贈るようにしたいものです。


著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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