セルロイドサロン
第6回
松尾 和彦
セルロイドと文房具
 四月は新入学生、新社会人が街にあふれる季節である。まるでランドセルが歩いているような新一年生、青い背広が板についていない新入社員の姿を見ると「ああ、自分もああだったなと」思い出してしまう。

 この新一年生のランドセルの中には筆箱、下敷き、定規類、算盤などの文房具類が入っている。そして新入社員の胸には、かつては就職祝いの定番であった万年筆が輝いていたものだ。
 セルロイドは成型が容易であったことから実に用途が広く頭髪用品、化粧用品、装身具、履物、日用品、玩具、運動具、楽器そして先ほど名前をあげたような文房具類にも広く使われていた。また裁縫箱や遠足のときに持っていく水筒もセルロイド製であった。

 こういったセルロイド製品には押さえるとベコベコと音がする、日光にあたると色褪せてしまう、落とすと割れる、真夏の暑さやストーブの側に置くと波打ってしまうなどの欠点があったが、それでも何とも言えない味わいがあった。
 音がしても、それで遊ぶことができたし、褪せた色は大事に長い間使ってきたという勲章であった。たとえ割れてしまっても捨てるようなことはしなかった。両方に穴を開けて毛糸など太目の糸でつなぎ合わせて使ったのだ。そして文房具としては使用不能となっても使い道があった。小さく切って縁日などでよく売っていた樟脳の船を作るのだ。さらに最後の最後の使い道があった。細かく切ったセルロイドをアルミ製の鉛筆キャップに詰め込んでお尻をペンチで潰す。そして適当な角度をつけた発射台に乗せてお尻をロウソクであぶると二、三分後にはロケットのように白煙を吐いて飛び出していった。中にはもう少し太い鉄パイプの中にセルロイドを詰めんでパチンコ玉で蓋をしてあぶるとパチンコ玉がピストルの弾丸のように飛び出していった。もちろんこういった遊びは危険であるとして学校や親からは固く禁じられていた。それでも子供たちは色々と工夫をして遊んだものである。またその当時は、これといった遊びがなかったし、遊びの場となる空き地が各所にあった。今ではセルロイド製の文房具類もアルミ製の鉛筆キャップも空き地も見られなくなってしまった。

でも骨董市などをのぞくと当時売られていた下敷きや筆箱などが売られているのを見かける。プレミアム価格もそれほどついていないので、もし購入される機会があったらお宝としてしまいこむのではなく、ぜひ普段使いの品物としてもらいたい。

 ランドセルが歩いていたような一年生も危険な遊びをしていた悪がきも成長をして中学、高校、大学、社会人となると胸に進学、就職祝いの定番であった万年筆を輝かせるようになる。この万年筆のボディーとしてエボナイトともに使われていたのがセルロイドであった。

 ところで手作りの高級品と寅さんなどが縁日などで「工場が火事になって泣きの涙で売り出した」という粗悪品(工場が火事になってどうしてセルロイド製品が焼け残るのだろう)とが、ともにセルロイド製品であったことをご存知だろうか。

 セルロイド製の万年筆はかつては主流であったが戦後に激減してしまった。その理由は製造に手間がかかるためにプラスチックなどに取って代わられたのだった。
 セルロイドは成型は容易なのだが、少なくとも六ケ月以上は乾燥させないと変形やねじれを生じてしまうために最終的な加工にかかるまでには長い期間が必要であった。そして作業にかかってからも実に六十もの作業工程を必要とし、しかも一つ一つが細かい職人技であった。そのために大量生産の時代に生き残ることができず、次第に衰退していったのだ。しかし近年ではセルロイドの持つ微吸湿性や指なじみのよさで再び注目を浴びるようになった。中でもカトウセイサクショカンパニーの加藤清社長が一人で作る万年筆は、まさに職人技の固まりである。こうして作られたセルロイド万年筆は少なくとも百年は変形・変色。しないと言われている。価格も八千五百円程度とお求め安いので一本は欲しい品物だ。

 で、寅さんなどが売っていた品物はというと、逆に寝かせる期間を取っていなかったセルロイドを腕の劣る職人が作ってペン先も金メッキしたものだったためにすぐに使い物にならなくなったのだ。
やはりどのようなものでも本物を持ったほうが結局は得をするもののようだ。

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。

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