セルロイドサロン
第56回
松尾 和彦
南極観測とセルロイド

 南極は地球上で最も厳しい場所と言ってもいいところです。平均すると二千メートルもの高原状の地形と厚い氷棚のために内陸部の平均気温は氷点下四十度以下にも達します。北極が夏には零度以上に上がることもあることと比較すると、南極の気象条件がいかに厳しいかが分かります。

 ところがこの厳しい場所にもセルロイドは行っているのです。今回は「南極観測とセルロイド」という、少し意外な感じがするテーマについて述べてみることといたしましょう。



 一九一一年(明治四十四年)南極の冬があけると、三人の男がこの厳しい場所を征服しようと競争を繰り広げることとなりました。ノルウェーのアムンセン、イギリスのスコット。そして日本の白瀬矗の三人です。

 じつはアムンセンは北極に向かうと思われていたのです。ところが彼の乗船フラム号から、スコットの乗船テラノバ号に入った電報は「南極へ向かうことをお知らせすることをお許しあれ」でした。

 ここに両者による熾烈な南極点初到達競争が開始されます。北極点初到達を目指していたのにアメリカのピアリーに先んじられたアムンセンは、何が何でもスコットに先んじようと、犬ソリを駆使して一九一一年十二月十四日に極点に到達します。

 一方のスコットは百十キロも遠い場所からスタートした上に、馬ソリ、動力ソリを失い人力でソリを引いて一九一二年一月十七日に極点に立ったものの、そこで見たものはノルウェーの国旗でした。その帰途、基地まで後僅か十四キロの処で隊員五人全員が死亡した悲劇は、あまりにも有名です。



 アムンセンが鯨湾に凱旋した頃、小さな船が日章旗を掲げていました。白瀬らが乗船していた僅か二百トンの開南丸の姿は、アムンセンらの記録フィルムにも残っています。

 乏しい知識と粗末な装備というハンディを抱えながら、犬ソリを操って南緯八十度五十分の処まで到達した白瀬の功績は高く称えられるところです。



 スコットの最期は誰もが知っているところですが、アムンセンと白瀬はその後どのような人生を歩んだのでしょうか。

 アムンセンはその後、再び北極探検に目を向けて飛行艇による北極制覇に取り組みます。二度の失敗の後、イタリア人のノビレとともに北極海上空を飛行し、北極は総てが凍った海であることを突き止めます。

 二年後の一九二八年五月、ノビレは北極海のスピッツベルゲン付近で遭難します。この報せを聞いたアムンセンは救援に駆けつけますが、搭乗していた飛行艇が墜落します。アムンセンと他の二人の遺体は今でも見つかっていません。なおノビレは、その後救出されますが、部下よりも先に救援機に乗ったと世界中から非難されたショックから、九十三歳で亡くなるまでほとんど家に籠もったままの生活を送りました。



 一方の白瀬ですが、オーストラリアにまで引き上げてきたところで内紛が起こります。そのため白瀬は僅か数名の部下とともに汽船で日本に帰国しますが、そこで更に衝撃的な報告を受けます。何と後援会長の大隈重信らが、今の金にすると十億以上もの資金の総てを遊興で使い果たしていたのです。白瀬に残されたのは多額の借金だけでした。

 白瀬は返済のために講演会を開催して全国を遊説して廻りますが、始めは多く集まった聴衆も次第に減り、二十年以上もかかかることとなりました。一九四六年、次女の住んでいた愛知県で八十五歳で没した白瀬の死因は餓死。過去の栄光とはあまりにもかけ離れた姿でした。

 このように南極点を目指した三人は、三人ともが悲劇的な最期を遂げたのです。



 南極観測は、その後二度の大戦があったことから中断を繰り返し本格的になったのは第二次大戦後になりました。

 日本が再開したのは一九五六年(昭和三十一年)のことですが、この年は経済白書の最後にかかれてあった「もはや戦後ではない」の言葉が流行語となったように、戦後の混乱を脱し人々の生活に豊かさが感じられるようになりだした時代でした。

 そのような時代になると人々はレジャーを求めるようになります。スキーもその一つで楽しむ人々が急増しました。道具や衣類などが海外から輸入されるようになりました。それまでのスキー板はケヤキ、ヒッコリーなどだったのですが、セルロイド生地を滑走面に貼り付けて滑り性能を良くするようになったのです。滑走面が塗装などされていると「木肌の悪さを見せないようにしている」と悪口を言われたものですが、輸入品のセルロイド貼りスキーが現れると、逆に木肌が見えると安物ということになってしまいました。



 第一次南極観測隊の装備が日本橋の白木屋で公開されたのは、この年の十月九日から二十一日でした。おびただしい量の装備品の中に二トン積みのソリもありました。このソリの滑走面は二段になっていて、氷上では突起をつけた鉄板で、そして雪上ではセルロイド面で滑るようになっていました。第一次南極観測隊は、このソリを実に十八台も宗谷に積み込んで持っていったのです。

 スキーやソリにセルロイドを貼っていた理由は、耐寒性と接着加工性の良さが評価されたためでした。その後、滑走面はポリエチレンなどの更に滑り性能の良いものに変わりましたが、セルロイド製トップエッジ、スキー上面のセルロイド生地は需要を伸ばしかなりの間、使用されていました。当時、輸入されていたスキーの大半はセルロイド貼りのものでした。

 大阪にありますセルロイド会館の中に大阪府スキー連盟、日本山岳会関西支部などが入居しているのは、このようにスキーにセルロイドを貼っていたという歴史があるからです。



 新潟県の上越市はレルヒ少佐がスキーを伝えたことからスキー発祥の地とされ、記念館もあります。その一角に「セルロイド」貼りのスキーが展示されていますが、残念なことに「プラスチック」となっています。

 このように現在ではセルロイド貼りのスキーがあったことさえ忘れられています。また宗谷から、富士、しらせと変わっていった南極観測船にもセルロイド貼りのソリは積み込まれなくなりました。当時、使われていたソリも所在不明となっています。もし行方をご存知の方がいらっしゃいましたらご連絡をお願いします。



 もうすぐスキーのシーズンがやってまいりますが、ゲレンデを滑る前に滑走面をなでてみて下さい。そしてこの面を如何にして滑りやすくするために先人が知恵を巡らせたかの歴史を思い返すようにしてください。



著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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