セルロイドサロン
第44回
松尾 和彦
人形史とセルロイド

 「人形」と書いてある文字を見て何と読むでしょうか。大抵の方は「にんぎょう」と読まれることでしょう。でも「ひとがた」と読むことも出来ます。実は、この二つは意味が違うのです。

 人形の歴史は非常に古く石器時代の遺物から、子供を授かったり、敵の矢を避けたり、穀物を虫害から守ったりしていた形跡がうかがわれます。また古代エジプトの墓であるピラミッドから、身体を現す薄い板に毛髪代わりの木製の数珠を垂らした人形が見つかったことがあります。さらに手の動く人形や、パン粉をこねる木彫りの人形なども出土しました。

 このように人の形を作って心の支えとしたり、病気や災難よけの身代わりとしたりする習慣は、人類とともにあったと言ってもよいほど古いものです。

 日本でも縄文時代の土偶、古墳時代には埴輪などがあるように信仰の対象として古くから作成していました。

 これが平安時代になると信仰だけでなく、子供の遊び道具、見世物、鑑賞道具としてのものが現れるようになりました。その頃の書物にはひとがた(人形)、くさひとがた(芻霊)、かたしろ(形代)、あまがつ(天児)、ひいな(雛)、ひとのかた(人の形)、偶人、土偶人、木偶人、人像、傀儡、艾人などの文字が見られます。この頃までは「ひとがた」だったのですが、平安時代の終わり頃か鎌倉時代の初めの頃に「にんぎょう」となりました。また室町時代になると「人ぎょう」、「きんぎょう」という文字が盛んに現れるようになります。

人形浄瑠璃などが行われるように行われるようになったのもこの頃からです。
 江戸時代ともなりますとゼンマイや水銀、砂、水などを動力源とするからくり人形が作られるようになりました。また百数十もの土焼き人形が製作されるようになりました。主に神社仏閣のお土産用だったのですが、参勤交代の時に買い求めて子供の玩具としましたので全国的に広まっていきました。そして江戸時代の終わり頃となりますと、等身大でまるで生きているような「生き人形」の見世物が流行しました。

 幕末の開国とともに人形も外国のものが入ってくるようになりました。すると日本人は早速それらを真似するとともに改良を加えて、地味で単調な動きしかしなかったものをカラフルで複雑な動きをするように変えたのです。その結果、逆に輸出するようになりました。

 人形はその後も大正期には文化人形、昭和初期のフランス人形などの隆盛期を経て現在では材質も形状も様々なものが作られています。


 ではそれぞれの人形について少し詳しく見ていくこととしましょう。先ずは雛人形からです。
 日本は観賞用としての人形が世界でも最も優れた国の一つとなっていて、何人もの人形作家が重要無形文化財保持者、つまりいわゆる人間国宝に指定されています。その下地となっているのは毎年同じ日に雛祭が行われてきたことです。

 この雛祭の歴史は古くて源氏物語にも記述があります。江戸初期頃までは今でも地方によっては作られています紙製の簡素なもので、その後に川などに流していたようです。これが布製となりすわり雛が出来るとともに三月三日となり、雛祭という言葉も生まれました。さらに三人官女、五人囃子、随身、仕丁などが加わるようになりました。

 ところで雛人形が江戸雛と京雛とで違うのをご存知でしょうか。先ず見て直ぐに分かるのが男雛と女雛の位置です。江戸雛は男雛が向かって左、女雛が右となっているのに対して、京雛ではその逆です。これは元々は京雛のような並び方になっていたのですが、廃刀令で刀を差さなくなった(向かって左では刀を抜いた時に女雛を斬ってしまう)からとか、外国の風習が伝わったからとか、昭和天皇の即位式に習ったとか言われていますが、はっきりとした理由は不明です。

 他にも見て直ぐに分かるのは江戸雛は屏風があるのに対して、京雛では御殿になっています。
 三番目の違いは注意深く見ないと分かりませんが、仕丁の持ち物が違います。江戸雛は沓台、台笠、立笠であるのに対して京雛は塵取り、熊手、箒となっています。

 現在では江戸雛が一般的になっていますので、京雛は京都周辺でしか見られないようです。

 三月三日の雛祭について書きましたので五月五日の端午の節句についても少し触れておきましょう。

 五月の節句は、元はと言えば武士が鎧兜、刀や槍、弓矢などの武具を戸外に飾って往来を歩く人々に披露していたのが始まりです。鯉幟が屋外に翻っているのは、武士の武具に対して町人が立身出世の印とされる鯉を飾るようになったことに端を発します。しかし交通事情の変化と雛節句の影響とで、次第に武者、金時、鐘馗といった勇ましい人形を室内に飾るようになっていきました。それでも時折り町興しなどのイベントで往来沿いに飾っているのを見かけることがあります。今のように鯉幟と人形との両方を飾るのは町人文化と武士の文化とが混ざり合っていることになる不自然なものです。


 次は郷土人形です。これは前に書きましたとおり神社仏閣などで売られていたのが広まっていったものですが、名前の通り郷土色が強いものなので、その土地でしか知られていないものが多いようです。その中にあって日本中に広まっているのが博多人形ですが、これは明治の末頃に現代人好みに変化させたのが受けて全国区になりました。

 郷土人形という名前ですから、日本中どこへ行ってもお土産やにそれぞれの人形がずらりと並んでいます。紙製、木製、粘土細工、石焼人形など材質も様々です。

 この郷土人形は神社仏閣などで売っていたものが多いものですから、最初は七福神とか十二支、稲荷の狐などだったのですが、時代とともに女学生や書生、軍人といったものが現れるようになりました。


 時代が明治から大正、昭和となり全国的な出版物が現れるようになるとキャラクター物が出回りだしました。親は子供のためにと思って日本、世界名作全集の登場人物を求めましたが、子供はのんきな父さん、冒険ダン吉、正ちゃん、のらくろなどに夢中になりました。この辺りは今でもポケットモンスターなどに夢中になっているところを見ると変わりがないようです。

 また幕末の開国とともにベビー人形、眠り人形などの西洋人形が入ってくるようになりました。すると前にも書いたように手足が動く、口や目が動く、声を出すといったぐわいに改良を加えて逆に輸出するようになったのです。そして花形産業となりました。


 ではこれらの人形の材質はどのようなものだったのでしょうか。

 先ずは土偶や埴輪のように土を使っていました。次に木や竹を組み合わせた人形が生まれました。また大鋸屑を固めた練り物人形などもあります。これらの人形は裸で売られていたものを家庭で着物を着せていたのですが、次第に最初から着せた形で売るようになっていき、豪華になっていきました。

 世界的な産業革命、日本での文明開化は人形の材質にまで影響が及び、ブリキ製のもの、そしてセルロイド人形が現れました。


 セルロイドは当初は価格が高かったものですから、とても人形には使えませんでした。そのうち量産体制が整いましたが、それでも切れ端などを組み合わせて風車などを作るのがやっとでした。次にガラガラなどの湯押し物が作られるようになりました。

 大正の初めにセルロイド加工に吹き込み成型という一大技術革新が生まれました。これによって一気に数多くのセルロイド人形が生まれました。さらに金型を改良して多様になっていたところに加えて第一次大戦による好景気とがあいまって、作れば売れる、高くても売れるという時代が続きました。

 しかしそのような時代が何時までも続くわけがありません。戦争終結による不景気と関東大震災とによって大打撃を受けたことから倒産、夜逃げが相次ぐことになりました。でも幸いなことに復興は早く、昭和の初め頃には年に五、六百万円という世界で第一位の生産額を誇るようになるとともに、輸出玩具部門でも一位となりました。

 そのセルロイドの燃えやすいという欠点を露わにしたのが白木屋の火事です。これによって一時的に玩具売り場からセルロイド製品が消えてしまいました。代替品としてベークライトや不燃性のセルロイドなどが用いられたこともありましたが、色々な問題があって普及することはありませんでした。こうなると玩具、人形に餓えた人々はまたしてもセルロイド人形を求めるようになります。しかし日中戦争が激化するとセルロイドは統制品となってしまいました。そのために人形はブリキになり、木になり、竹になりました。


 戦争が終わると人々は総てに餓えていました。食べることはもちろんですが、玩具や人形にも餓えていたのです。しかし材料がありません。その時に現れたのが米軍の缶詰を裏返したブリキの玩具です。そして二、三年も経つとセルロイド人形が再び生産されるようになりました。

 Made in occupied Japan(占領下の日本製)と刻まれた玩具や人形などが外貨を稼いで疲弊しきっていた日本の経済を立て直しました。この時の代表がサロン17でも書きましたパープー人形です。今考えれば、猿や少女の人形にカラフルな羽を貼り付けて棒にぶら下げているだけですが、これが年に七十万個以上も売れたのです。さらに朝鮮戦争による戦争景気で日本の経済は一気に回復することとなりました。

 その戦争が終わった頃にアメリカで日本製セルロイド人形の可燃性が問題視されるようになりました。理由は、まだ根強かった反日意識だとも、塩化ビニール業界からの圧力があったからだとも言われていますが、本当のところは分かりません。

 とにかくこうして人形の素材がセルロイドから塩化ビニールに変わることとなりました。でも一気に変わったわけではありません。デパートでは塩化ビニールの人形を売っていましたが、一般の小売店ではセルロイド人形を売っていました。しかしそのうちに塩化ビニールを製造するようになりセルロイド関係の業者、組合が塩化ビニールのものに変わっていきました。


 こうして人形の主役となっていった塩化ビニールは、不況があったり怪獣ブームによる好景気があったりで浮き沈みが多い素材でした。そして二十世紀の終わり頃に決定的な大打撃を受けました。

 まず燃やした時にダイオキシンが発生するのです、そして可塑剤に内分泌撹乱物質つまりいわゆる環境ホルモンが使われています。このダブルパンチで数多くの塩化ビニール人形業者が店をたたむこととなりました。そして今では各種のプラスチックと、自然にも人間にも優しい素材であるとして木材が人形に使われています。


 このように人形の素材には、その時々で入手が容易で成型加工も行いやすいというものが使われてきました。

 土偶やピラミッドからの人形の歴史の中にあってはセルロイドの時代は確かに短いものでした。しかし主役、それも圧倒的な主役を務めた素材として特筆されるべき存在となっています。

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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