セルロイドサロン
第43回
松尾 和彦
金平糖の容器とセルロイド

 一五四三年(天文十二年)にポルトガルから伝わった鉄砲(種子島)は、それまでの刀、槍、弓矢などに頼っていたの日本の戦い方を変えたと言われています。

 この頃に鉄砲などの南蛮の文物を売り込もうとしたり、キリスト教を布教しようとした貿易商人や宣教師達は手土産として南蛮菓子を携えていました。日本では砂糖は貴重品であったから、カステラやカルメラ飴などの菓子は大いにもてはやされたのです。

 金平糖もその一つで、分かる限りでは一五六九年(永禄十二年)に宣教師ルイス・フロイスが信長にフラスコに入ったものを献上したのが最初と伝えられています。また豊臣秀頼は金平糖が好物で秀吉は幼い我が子に食べさせては喜んでいたという。

 金平糖は、もちろん当て字でポルトガル語で砂糖菓子の総称であるconfeitoに漢字を当てたものですが、なかなか良い字を考え付いたものです。他には金米糖、金餅糖、渾平糖、糖花なども用いられていたが、やはり金平糖が一番しっくりと来ます。

 当時のコンフェイトはポルトガルでも貴族階級のみが口に出来た高級品で、貝や木の実の形をした金型に砂糖を流し込んで焼いたものでした。現在、ポルトガルで作られているのは日本のものとは違って、球形で形も大きく突起は小さく角は丸くなっています。

 日本で作られている金平糖のような独特の形を作り出すのには二週間もの日数がかかると聞かされると驚いてしまいます。先ず平らな鉄の大釜の中にグラニュー糖を入れて、加熱しながらゆっくりと廻すとともに濃い砂糖水のしずくをかけていく。そうすると二日目には直方体の粒が丸まって小さな球体となります。三日目になると小さなデコボコが出来ます。さらに砂糖水をかけて回転させていくと次第に突起が生長していき、二週間後には平均して二十四個の角をつけた一・五センチの金平糖となるのです。

 このように聞かされるとあの小さな砂糖菓子がいとおしくさえ思えてきてしまいます。

 こうして出来上がった金平糖をガラス瓶などの容器に入れていくのですが、ここで変わった要求が出されます。
「容器の中で金平糖が二列になってはいけない。一・五列にしてくれ」

 入り過ぎてもいけない。だからといって向こう側が見えるようではいけないという難しい注文を出されても、職人が黙々と作り上げた金平糖の瓶を収集するのは現在では大変な作業です。何故ならガラスは割れるものだし、金平糖が入っていたような小さな瓶などは捨てられてしまうからです。

 このような事情があるために、金平糖の容器は時として大変な価格で取引されているのを見て驚くこととなります。


 ずいぶんと前置きが長くなりましたが金平糖の容器としてもセルロイドが使われてきました。ガラスと組み合わせたもの、セルロイド単体のもの。色合いの美しさと熱加工が容易であるのとをかわれてセルロイドは金平糖の容器として珍重されました。またプラスチックと違って薄く作ることが出来ますので彫りが深くて繊細なものが出来ました。

 セルロイド製の金平糖容器としては分福茶釜など童話に題材をとったもの、鳥や狸などの動物もの、キューピーや大石内蔵助などのキャラクターもの、袋や傘などの生活雑貨ものなど各種あります。滅多に市場に出てこないのが現状ですが、もし見かけられましたら手にとって眺めるようにしてください。ただし価格はそれなりのものがあります。


著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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