セルロイドサロン
第39回
松尾 和彦
セルロイドの歴史と現状

 プラスチックの先駆けとして知られるセルロイドの発明については、一八六八年にアメリカのハイアットによるとか一八六五年のイギリスのパークスとか言われていますが確定したものではありません。しかし何れにせよその頃に発明されたものです。

 セルロイド事業はアメリカ、イギリスはもちろんのことフランス、ドイツなどにも広がり、製品も入れ歯の床、袖や襟のカラー、コルセット、櫛、ボタン、玩具、フィルム、ブラシ、時計など多岐に渡りました。
 日本に入ってきたのは一八七七年のことですが、当時は知識も乏しく輸入も途絶えたために姿を消すこととなりました。その後、様々な人が挑戦と失敗とを繰り返しましたが、三井、三菱という大資本が参入することによって生産も安定し、また重要な材料の一つの樟脳の大生産地である台湾が日本の領土になったこと、第一次大戦による戦争景気などで飛躍的に生産量が伸び、たちまちのうちに世界一の生産量を誇るようになりました。そして次々に新会社が設立されることとなりました。

 その後、戦後の不景気による落ち込みなどもあり八社が統合して出来たのが現在のダイセル化学工業となった大日本セルロイド(株)です。

 昭和初期には金融恐慌などもあり苦しい時代が続いたセルロイド業界ですが、満州事変の勃発とともに内外の需要が拡大し昭和十二年(一九三七)には世界の生産量の四○パーセントにあたる一二、七六○トンを生産するまでになりました。しかし日中戦争の激化、太平洋戦争への突入などで急速に減少していきました。

 終戦直後には極端なまでに落ち込んだセルロイド業界も、インド向け腕輪や玩具などの生産が好調だったこともあり順調に回復していきました。ところが昭和二十九年(一九五四)にアメリカから大変なニュースが伝わってきました。日本製のセルロイド玩具の燃えやすさを問題として輸入を禁止するというのです。
 この燃えやすいということはセルロイドの最大の欠点でした。白木屋の火事もセルロイドの可燃性が原因の一つとなっています。その頃アメリカでは難燃性の塩化ビニールの生産を始めていました。その他のプラスチックも次々に発明されました。

 このアメリカの輸入禁止、新プラスチックがセルロイドの需要分野を侵すようになったことなどにより、セルロイドの生産は次第に減少していき生産を中止する会社が相次ぎました。そして平成七年(一九九五)にダイセル化学工業が生産拠点を中国に移したことにより、世界一の生産量を誇った日本からセルロイド生産の歴史が閉じられました。

 現在、セルロイドはピンポン玉、パチンコ化粧板、メガネ枠、万年筆、ギター、アコーディオンなど一部の物に使用されているだけとなりました。その中にあって平井玩具製作所が、かつての金型を使用して約五十年ぶりにセルロイド人形のミーコを復活させたことは特筆すべき事項となっています。皆様方も一つは手にされたらいいと思います 

著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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