セルロイドサロン
第3回
菱川 信太郎
セルローイド余話
はじめに
現在隆昌を極めている合成樹脂工業が誕生したのは、今から僅か90年ほど前のことです。そしてそれをさかのぼること約半世紀、新しい素材として登場したのがセルロイドでした。
それは天然の繊維素から得られた半合成物質でしたが、それまでの天然素材に見られなかった、美しく柔らかな感触と強靭性、弾力性など優れた機能を持ち、日用雑貨はもちろん玩具、楽器、文具、装飾品、眼鏡など様々な分野に使用され、人類文化の向上発展に寄与して来ました。
このセルロイドは、英国および米国で発明されたのですが、わが国においても、三井、三菱両家が相次いで企業化を行ったこと、その後第一次世界大戦が勃発して、ヨーロッパのメーカーが火薬の製造に転じたこと(セルロイドの原料である硝化綿は発射薬の原料にもなります)などから、わが国のセルロイド業界は隆盛の一途を辿り、昭和初期には、世界の生産の42%を占めるようになったのです。
また経済も工業も荒廃した戦後にも、いち早くセルロイドの輸出が始められ、昭和27年のセルロイドの輸出は、日本の全輸出額の50%を超え、それによる外貨は、わが国の食料輸人代金に当てられ、食料難に喘いでいた国民を救いました。
このように大正・昭和と時代と共に歩んで来たセルロイドだけに、それにまつわる物語りも少なくありません。

1.青い目の人形
キューピー人形は、主にセルロイドでつくられていましたが、これは1912年に、アメリカの女性デザイナー、ローズ・オニールによってデザインされ、世界の人気キャラクターになっていました。
そして「青い目をしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイド、…」の歌にもあるように、日本にも輸入され、日本の子供にも親しまれるようになりました。
しかしわが国のセルロイド工業の勃興と共に、これらの人形は、日本でもつくられるようになり、大正年代に入ると、日本製のセルロイド人形が、遠く海を渡って、アメリカはじめ、世界各国に輸出されて行ったのです。
なお童謡、「青い目の人形」は戦前、戦中、戦後を通して、それぞれの時代を代表する童謡歌手、奥田知子、河村順子、伴久美子によるレコードが発売され、子供たちの間で永く歌い継がれて来ました。

2.放浪記
その頃におけるセルロイド工場での雇傭や就業の状況については、林芙美子が大正12年、セルロイド玩具工場で働いた、自らの体験をもとに記した、「放浪記」に、次のように生き生きと描かれています。
『浮き世離れて奥山ずまい、…こんなヒゾクな唄にかこまれて、私は毎日、玩具のセルロイドの色塗りに通っている。日給七十五銭也の女工さんになって今日で四か月、私が色塗りした蝶々のお垂げ止めは、懐かしいスーベニールとなって、今頃はどこへ行っているだろう。
日暮里の金杉から来ているお千代さんは、お父っあんが寄席の三味線引きで、弟妹六人の裏屋住まいだそうだ。「私とお父っあんとで働かなきゃあ、食えないんですもの・…」お千代さんは、蒼白い顔をかしげて、侘しそうに赤い絵の具を、ペタペタ蝶々に塗っている。
ここは女工が二十人、男工が十五人の小さいセルロイド工場で、鉛のように生気のない女工さんの手から、キューピーがおどけていたり、夜店物のお垂げ止めや、前帯芯や、様々な下層階級相手の粗製品が、毎日毎日私たちの手から、洪水のごとく市場に流れて行くのだ。
朝の七時から、夕方の五時まで、私たちの周囲はゆでイカのような色をしたセルロイドの蝶々や、キューピーでいっぱいだ。文字通りゴム臭い、それらの製品に埋もれて仕事が済むまで、私達はめったに首を上げて窓も見られないような状態である。
事務所の会計の細君が、私達の疲れたところを見計らっては、皮肉に油をさしに来る。
「急いてくれなきゃ困るよ。」
フンお前も私達と同じ女工上がりじゅないか、「俺たちゃ機械じゃねえんだよう」発送部の男達が、その女が来ると、舌を出して笑いあっていた。五時になると二十分は私達の労力のおまけだった。日給袋の入った笊が廻ってくると、私達はしばらくは、激しい争奪戦を開始して、自分の日給袋を探し出す。
− 夕方、襷をかけたまま工場の門を出ると、お千代さんが、後から追ってきた。・・・」

3.「セルロイド工業発祥の地」・記念碑
林芙美子が働いていたセルロイド工場は、東京葛飾区四つ木界わいにありましたが、この地区の最大のセルロイド加工々場は、この業界の始祖といわれる、千種稔が経営するセルロイド工場でした。この工場は戦災で焼失しましたが、その跡地は戦後葛飾区に寄贈され、区立の渋江公園になっています。
そして葛飾区はこの公園内に「葛飾区セルロイド工業発祥の地」という記念碑をつくっています。
また近くには、セルロイド加工から転じた綜合人形会社、「セキグチ」があって、その構内の「ドールハウス」には、キューピーをはじめとする、さまざまなセルロイドの人形や、それに使った金型が展示されています。

4.「男はつらいよ」
この記念碑が建てられた昭和27年、一人の男がセルロイド生地工場の門をたたきました。この工場は業界最大手の、大日本セルロイド株式会社の東京工場で、北区小豆沢にあり、男の名は田所康雄と言いました。
セルロイド生地の製造は、いくつかの工程に分かれていますが、このうちロール工程での作業には、可なりの体力を必要とします。田所は体格もよく、手も大きかったので、早速ロール係に配属されました。
ところが彼は仕事にはあまり熱心でなく、折からの輸出ブームで仲間が残業で忙しく働いているのに、時間が来るとサッサと仕事を切り上げ、赤羽駅前の寄席へ飛んでゆき、幕引などをやっていました。そのため工場での評判は今一つでしたが、仕事の合間には工場長や課長の物まねをして、皆を笑わせていました。
その復しばらくして、田所は退職してゆきましたが、それほど親しい者もいないまま、彼のことは皆の記憶から薄れて行きました。
一時は流れて…
職場の仲間が再び彼と出会ったのは、映画やテレビで、「男はつらいよ」の寅さん役を演じる、渥美清としてだったのです。
「人というものは、ほんとうに分らぬものだ。」
当時の工場長が、しみじみとした口調でつぶやいた述懐でした。
なお山田洋次監督になるこの「寅さん」は葛飾区柴又を舞台に、寅さんの妹役に倍償千恵子、相手役のマドンナに、吉永小百合、浅丘ルリ子、松坂慶子など、当代を代表する人気女優のすべてを配し、全48作におよぶ人気シリーズになりました。
そして「柴又帝釈天」近くに建てられた「寅さん記念館」には、今も毎日多くの人が訪れて、賑わい続けているのです。

5.ぼくは「おまけ」
「おまけ」と聞いてすぐ頭に浮かぶのは「グリコ」のおまけです。グリコは、中華料理の材料である干し牡蠣をつくるときの、煮汁からとったグリコーゲンを利用した飴で、大正10年、佐賀県の薬種間屋の江崎利一氏が考案したもので、栄養に優れていることから、江崎はこれはキやラメルでなく薬だとし、飴の形を体で一番大切な、ハート型にしましれそして箱のデザインに、当時大阪で行われた「第六回極東オリンピック」の優勝者、フイリッピンのカタロン選手のゴールの姿を使い、「一粒・300米」のキャッチフレーズを加えました。しかしグリコを一層有名にし、販売に役立ったのは、何と言っても「グリコのおまけ」たったのです。
このグリコで「おまけ」を担当していたのが宮本順三で、彼は昭和9年、彦根高商の文芸部を出ると、すぐグリコ株式会社に入社し、「グリコのおまけ」係として、企画から製作に至るまで一手に引き受けて、東奔西走しました。この時代の唯一のプラスチックはセルロイドでしたから、当然のことながら、おまけの材料にもセルロイドが多く使われていました。
宮本は戦後グリコを退職して、セルロイドの加工会社をつくりましたが、江崎社長のたっての希望から、その後も「グリコのおまけ」を供給することになり、「おまけ」との縁は切れませんでした。
宮本はその後、大阪今里にあるセルロイド会館三階に、「小さなおもちゃ」の博物館・兼販売店「おまけや」をつくり、さきごろ「ぼくは豆玩(おまけ)」という自伝を発刊しています。そして86才になった今でも、自分の娘や孫娘と共に、このおもちゃ博物館を守り、「おまけ人生」を送っています。

著者の菱川 信太郎氏はセルロイド産業文化研究会理事である。

連絡先: セルロイドライブラリ・メモワール
館長  岩井 薫生
電話 03(3585)8131
FAX  03(3588)1830


copyright 2002, Celluloid Library Memoir House