セルロイドサロン
第196回
松尾 和彦
戦時代用品

 
 1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は不拡大の方針に反して戦線を広げ、やがてはアメリカとの戦争となり1945年の終戦に至るまで日本は戦争一色となりました。

 これほど長い間、戦争を続けたら経済は疲弊してしまいます。1945年の物価を十年前と比較すると、コメが三倍、蕎麦が四倍、鉛筆が十倍などでトータル的には十三倍であったと言われています。これはもちろん公定価格での話で実際には公定価格の五倍どころが十倍出しても手に入るかどうかでした。この年の国家予算は約94%が戦争関連のものでしたので民間の暮らしなど考えることが出来ませんでした。
 さらに物不足は著しく様々な代用品が登場しました。代表的なものが金属供出によって他の材料を使った品々です。ではここでいう「代用品」とは何かですが「被代用品と用途の全部または一部が同じで、被代用品とは製法や材料が異なっていて、国際貸借の改善や不足物資の補填に寄与する必需品」と何ともややこしい説明がなされています。

 代用品としてセルロイドが使われていたケースにつきましては、これまでも第15回、66回、74回、77回、103回などで取り上げてきました。すなわち歯磨きのチューブ、足袋のコハゼ、ペン先、蚊帳の吊り手などです。他にもペン先、鎮、カード立てなどもセルロイド製が現れました。
 それらの中で最も成功した例として挙げられているのが画鋲ですが、当時のうたい文句としているのが「国策に沿う」ものであり、名前も「祖国画鋲」「愛国画鋲」などと当時の時代背景を表すものとなっています。
 この画鋲は黄銅性の細い釘のようなものを二枚のセルロイド板で貼り合わせたものです。今、お手元に画鋲があったらご覧いただきたいのですが貼り合わせたような形になっているでしょう。その原型となったものです。

 ではセルロイド製の代用品は何時頃現れたのでしょうか。当時の新聞、雑誌などの記事や特許、実用新案の申請認可の時期を見ますと1937年には早くも現れ、翌年が最大となっています。そして戦争が激化してくる1943年頃を最後に姿が消えていったようです。
 セルロイドは金属に代わる代用品として真っ先に考えられたものでした。そして有力な軍事物資の一つでしたので民需には回されなくなりました。ですから現れたのも最初、姿を消したのも最初というわけです。そして竹や木などがセルロイドに代わった頃に戦争が終わりました。

 今ではこれらの代用品は幻の品、珍品としてかなりの高値で取引されたりしています。横浜館にも数々展示していますのでご来館の際にはぜひご覧になってください。


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