セルロイドサロン
第134回
松尾 和彦
樟が語る日本の戦争



  貴方の通っていた小学校のことを思い出してください。また子供の頃に遊んでいた神社、仏閣、公園などを思い出してください。そこには樹齢百年程の樟があったのではないでしょうか。特に関東から西の地域にはあったことと思います。

 そのような場所にあった樟は自然のものではなくて記念樹として植えられたものが殆どです。特に樹齢百年程のものは間違いなく植樹されたものです。ではどうして記念樹として植樹されたのでしょうか。


 明治維新から十年後に西郷隆盛が「政府に申し上げたきことこれあり」と叫んで鹿児島で蜂起したことはあまりにも有名です。

 この戦争での死者は西郷軍6,400、政府軍6,800というものでした。この数字が如何に多かったかということは日清戦争での戦死者が1,132であったことで分かります。

 日本の歴史上最後のものとなった内戦が意外なものを遺します。翌年、恩賞の不公平さに不満を持った兵士が反乱を起こしました。彼らの攻撃目標は大隈重信、山県有朋の両名でした。大隈は恩賞削減を行い、山県は常に私腹を肥やすという行為ゆえに目標となったのです。

 この反乱は一日にして鎮圧され53名もの兵士が銃殺刑となります。

 反乱の中心が近衛兵であったことに衝撃を受けた山県が考え出したのが軍人勅諭です。さらに子供の頃から教え込む必要があると考えて教育勅語を作り出します。この勅語が御真影とともに奉安殿に飾られた明治二十三年(1880年)に記念として植樹されたのが樟でした。

 それから十五年後、日本は清との戦争に勝利し樟の大生産地である台湾を領土とします。するとまた記念樹として樟が植えられました。さらに十年後の日露戦争の戦勝記念として植樹されたのも樟でした。



  ではどうして他の木ではなくて樟が記念樹に選ばれたのでしょうか。それは虫よけや樟脳などに使われる他に巨木となるので夏の日除けとなり、防風防塵の役割を果たす、彫刻材や船の用材として用いられるという特性を持っていたからです。

 樟脳の輸出額は明治二十三年(1880年)の段階で既に二百万円近くに上っていました。台湾が日本領となってからは、ほぼ独占状態となりました。これに危機感を持ったアメリカはフロリダ半島に樟を植えましたが、葉が茂った頃にアオスジアゲハの幼虫によって食い荒らされて断念するという珍事となりました。



 この記念樹が五十年を迎えた頃、すなわち昭和の初めから二十年頃は戦争に次ぐ戦争でした。樟脳も軍需物資として大量生産を要請されて樟が次々に伐採されました。学校や神社仏閣公園にあったものも例外とはなりませんでした。今遺されている樟はその時の伐採をまぬかれたものです。



 このように樟が植えられたのも伐採されたのも戦争がきっかけとなっています。もう戦争が起こらないように、また異常なまでの伐採が起こらないようにしていきたいものです。





著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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