セルロイドサロン
第120回
松尾 和彦
鈴木商店は何故倒れた



 1927年(昭和二年)四月五日、日本の近代史上最大の倒産がありました。倒れた会社の名前は樟脳財閥と言われた鈴木商店。負債金額は経済規模、物価などが違うために計算できませんが、衝撃度は「三井」、「三菱」の名前がついている会社が残らず破綻に追い込まれたぐらいのものがありました。

 この鈴木商店は1874年(明治七年)に川越藩の鈴木岩次郎が辰巳屋から暖簾分けという形で創立した主に砂糖を取り扱う小さな商社でした。その小さな商社を巨大化させたのが城山三郎の小説「鼠」の主人公となっている番頭の金子直吉です。ここでいう鼠とは主人に忠実な「白鼠」という意味です。金子によって神戸八大貿易商の一つに数え上げられるようになった鈴木商店がさらに発展するようになったきっかけは日清戦争でした。

 日清戦争以前の日本の国家予算は約八千万円でしたが、戦争によって膨れ上がった予算は二億三千万円にも上りました。清国に勝利して得られた賠償金は三億六千万円。これらの数字を現在に当てはめると八十兆円だった国家予算が戦争により二百三十兆円となり、賠償として三百六十兆円を得たということになります。

 これだけの巨大な賠償金の使い道は海軍拡張費が一億四千万円、陸軍拡張費に五千六百万円、臨時軍事費七千九百万円、軍艦等補充費三千万円など、殆どが軍事費に費やされ前近代的な産業奨励に宛てられた金額は僅か五十八万円足らずでした。しかもその金も軍事用の製鉄所を建設するために使われたもので、脆弱だった金融機関の強化、不潔な生活を強いられていた国民への病院建設などには全く使われませんでした。もしこの時に経済、保健衛生等を充実させるために賠償金を使っていたら、後の金融恐慌や伝染病の蔓延等の悲惨な歴史を避けられていたかもしれません。

 予算というものは一度膨れ上がるとその金額が常態化します。1896年(明治二十九年)には三億九千万円、その翌年には四億四千万円にもなりました。これだけの予算を支えるために増税に次ぐ増税が行われました。そのため一般国民の生活は圧迫されます。さらに戦後インフレによる金融恐慌で第九銀行、第七十九銀行など数多くの銀行が支払い停止に追い込まれます。

 この閉塞的な状況を打破しようとした結果は、やはり戦争でした。日露戦争に費やした軍事費は十五億円余り、つまり現在にあてはめると千五百兆円以上になってしまいます。しかも日清戦争の時と違って賠償金は全く手に入りませんでしたから、衝撃度は日清戦争の時の比ではありません。何しろ明治四十一、二年の頃には政府自身が「今のままでいくと明治四十七年(大正三年)には日本は完全に破綻して二度と立ち上がれなくなってしまう」との予測を立てたほどです。もちろん一般国民には秘密にしていました。この予測に焦った政府が建てた方針は拡大策でした。そのため韓国を併合してしまいます。焦ったために事前に行う根回しなどを欠いたものとなり韓国民に対する恨みをかうこととなりました。

 日清戦争の時に経済を充実させていたら日露戦争を行う必要はなかったでしょう。韓国を併合する必要性はさらに無かったでしょう。政策の誤りが如何に後世に甚大な負担を強いるかの例と言えましょう。

 一方戦争によって発展した資本家もいました。代表が鈴木商店です。日清戦争の結果、新たに日本領土となった台湾から得られる砂糖、樟脳などにより三井、三菱をも上回る大財閥となります。

 この新興財閥がさらに発展したのもやはり戦争でした。第一次世界大戦が起きたのは1914年(大正三年)。つまり政府が日本は完全に破綻してしまうと予想していたまさにその年でした。

 この戦争は直ぐに終結すると予想する人が大半だったのに対して「今までになかった大戦争となり長引く」と予想したのが鈴木商店でした。「大戦」という言葉を初めて使ったのは日本ですが、中でも最初だったのが鈴木商店です。スエズ運河を通過する船の一割は鈴木商店所有、塹壕の土嚢に使われた小麦袋は菱形にSZKが入った鈴木商店のものでした。

 第一次大戦は日本に空前の好景気をもたらしましたが一方では物価高ともなりました。特に米の値上がりは凄まじく1918年(大正七年)の一月に一石十五円だったものが、僅か半年後には三十円を越えます。主食がこれほどまでに上がってはたまったものではありません。結果は米騒動です。現在では濡れ衣であったことが判明していますが米値上がりの主犯は買占めを行っていた鈴木商店である、と言われました。そのため金子には十万円もの懸賞がついたほどです。また焼き討ちにより神戸の本店は全焼しました。

 戦争が終わると決まって不景気になります。株価、工業製品価格、船賃などが軒並み下落したために各社ともに打撃を受けました。中でも上場していなかった鈴木商店の打撃は大きく資本金一億三千万円に対して借入金が十億円に上りました。そこへ持ってきて関東大震災です。この時に発行された震災手形の約半分が台湾銀行のもので、その中の七割が鈴木商店関連でした。つまり震災手形は鈴木商店のためにあったとも言えるでしょう。

 こうして何とか生き延びたのですが金融恐慌には持ちこたえられませんでした。片岡大蔵大臣の失言により東京渡辺銀行が破綻すると十五、八十四、中沢、村井、左右田銀行などが連鎖反応的に倒れました。

 このような状況にあって台湾銀行が鈴木商店への融資打ち切りを宣言します。系列下にあった六十五銀行には支えるだけの体力がなく遂に破綻へと追い込まれてしまいました。

 鈴木商店の破綻については「上場していなかったからだ」「メーンバンクを持っていなかったからだ」と言われますが、日清戦争のときの賠償金を経済体制整備のために使っていたらどうだったでしょう。軍事費ばかりに費やすのではなくて保健衛生に一億円使えば各都道府県に国立病院を一つずつ建設することが出来ました。また経済体制に整備に一億六千万円使えば銀行に体力がつき恐慌にも耐えられたでしょう。戦争ばかりに頼ることも無かったことでしょう。

 日本が最後の戦争を終えたのは日清戦争から五十年後の1945年(昭和二十年)。その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争などの特需で潤うという有様でした。今でも戦争頼りの経済体制から完全に脱しているとは言い難いところがあります。政策の誤りが百年以上もの間、影響をもたらしてしまうということを政治家達は肝に銘じてもらいたいものです。






著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


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