セルロイドサロン
第1回
松尾 和彦
学生服
黒の詰襟の学生服を着ると中学生になった実感が味わえるという人も多い。
この学生服は元はといえば陸軍下士官の戦闘服がモデルで統一がもたらす集団・連帯意識を作ることやエリート意識を作ることが狙いであったらしい。

学生服が黒色なのも戦闘服が黒だったからで、日清戦争後に軍服はカーキ色になったがそのままだった。

明治二十年頃から高等師範・師範・中学・高等中学・帝大などで採用し始めている。

ただしなかなか普及しなかったようで明治期から大正期に掛けては、男児は木綿の筒袖の着物、女児は元禄袖が流行したこともあったが、大正期にはおおむね筒袖の着物が一般的で高学年には袴の着用をさせたところもあった。

洋服を着用するようになったのは大正の中頃からで、それも都市部にある師範学校の付属校のような中心校に限られ、地方では全くいないかクラスに一、二名でからかいの対象であった。

小学校の学童服が一般的になったのは昭和六、七年頃からで、とくに上海事変(昭和七年)以後に普及した。

女子の制服は明治四十五年四月に東京実践女子学校で始まり、上は道行襟と元禄袖、下は行灯袴で和服の上っ張り風のものであった。
セーラー服が制服になったのは昭和の初期からで、これもなかなか普及しなかったが、昭和八年にドイツ映画「制服の処女」が封切られると、清楚な制服を着た女学生は憧れの的となり急速に普及した。

この服の素材は長い問木綿であったが昭和二十七年頃からナイロンなどの合成繊維となった。

戦争中は国民服のあおりで学生服も一時期カーキ色になった。金ボタンも供出でベークライト・瀬戸物・素焼きなどに代わった。

この金ボタンは幕末ごろからのもので幕府雇員の服装に徳川氏の紋章入りボタンを使用した。明治四年には太政官布告により陸軍の将校服に真鍮メッキの桜花型金ボタンが制定された。製作は錺師や足袋の小鉤製造から転じたものであった。ボタン工場の最初は明治十五年に大阪に生まれた。

明治大正になると金ボタンは大礼服陸海軍将校用・郵便局員用・警察官用・学生服用などに使用された。

詰襟の学生服に使用される襟カラーは最初ベークライト製であったが、大正期頃からセルロイド製となり、戦争中は火薬に使われたために厚紙が代用品となった。

戦後もセルロイドが使われたが、割れやすいという欠点があったために昭和四十年代頃から塩化ビニルに代わり、現在では環境問題があるのとフィット感の良さからポリプロピレンが使用されている。
著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。

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