カンファレンス探検記
松尾 和彦

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・セルロイドカンファレンス2006報告


 去る二○○六年十一月十七日(金)、東京の国際文化会館においてセルロイドカンファレンス2006が開催されました。二○○○年十月六日の第一回より数えて六年、今回は初めてカンファレンスとファンの集いとを同時に開催することが出来ました。

 天候にも恵まれ、カンファレンスの参加者約六十名、集いが十名と今までの最高を記録しました。顔ぶれを見ますとまだ現役のような方から、九十を越えるオールドボーイに至るまで、まさに多士済々といった面々が集まり、セルロイドに対する熱い思いを感じました。



 研究会の甲斐会長の挨拶が十五分の予定だったのが三十分になってしまったということは、逆に言えばそれだけのものを語らせる様々な力を持っているのがセルロイドであるということの証でしょう。これが他のプラスチックス類でしたら甲斐さんも、ここまでオーバーすることはなかったはずです。

 これまでの六年を振り返るとともに、四年後に来るカンファレンス十周年への展望を述べられました。



 続いて関西セルロイド・プラスチック協会の小野理事長によってセルロイド物故者への黙祷が行われました。この六年の間に第一回で黙祷の音頭をとったグリコのおまけの宮本順三氏、元ダイセルの久保田美文氏、そして新たにセルロイド万年筆の製作にあたっていた岡崎忍氏らが鬼籍に入られました。セルロイド産業を支えてこられたこれら先人の魂に敬意を表したのです。



 中條技術委員長の話された「セルロイド発明のいきさつ」は、もはや伝説となった感のあるカンフルチンキの瓶をこぼしたというハイアットの話の真偽、そのハイアットとスピル、パーク、パンキンらの先陣争いは誰が最初だったのか、彼らの作ったニトロセルロースはどのようなものだったのか、可塑剤として樟脳を使っていたのか、シェーバインが硝化綿を発明してからセルロイドが発明されるようになるまで、スピルとハイアットの裁判闘争、ハイアット兄弟はジョン・ウィスレイとイサイアのどちらが兄だったのか、その兄弟の役割分担、セルロイドの名前の由来、日本への伝来などについてでした。

 これらのことは何れも一八六○年からの十数年の間に起きたことですので、彼らがそれぞれバラバラに研究を進めてきたとは考え難いところです。

 さらに科学が出来て技術が出来るのではなく、逆に技術があって科学が後からついてくるといった話も出ました。
 一八七七年に日本にやってきた時には僅か六センチ四角ほどだったセルロイドが、一九三三年には世界で最大の生産国となったのです。

 もちろんそれには先人達の大変な苦労があったのに他ならないといった内容について熱く語られました。



 「セルロイド産業年表を纏めて」と題される発表をされた和久井技術副委員長は、一八七七年に神戸に最初のセルロイドが輸入されましたが、それが通常伝えられているドイツのものだったのか、アメリカのものだったのかから始まり、そのセルロイドを擬珊瑚珠に加工したのが、日本でのセルロイド産業の始まりだと話されました。

 このまさに細々としたといった感のある始まり方をした日本のセルロイド産業は、次第に世界で大きな地位を占めるようになっていき、遂には世界一になった経緯を述べられました。

 日本のセルロイド産業の特徴は、諸外国では生地の製造から製品の加工に至るまで同一工場での一貫生産が一般的だったのに対して、加工産業が確立され次いで生地の製造に入ったことから、両者の分野が別個の存在となったという特徴があると説明されました。

 この世界一のセルロイドも戦争中には統合され、新製生地メーカーは十二から四。再生メーカーは五十六から僅か二つ。加工会社に至っては二千六百から二百五十、さらには三十八へと統合されたのですから、いかに苦難な時代であ
ったかが分かる話でした。

 この困難は戦後も続き賠償支払いのために撤去すべき工場に指定されたのですが、食料輸入の見返り品として「メイドインオキュパイドジャパン」との文字が入った日本製玩具がアメリカに向けて輸出されて、日本の窮状を救ったのでした。その数字の伸びが一九四七年の一八九万六千円が、翌年には三億七千万円、さらには六億四千万円となったのですから、如何に凄かったかが良く分かる内容でした。



 赤と黒のストライプという、あまり見かけない柄の湯桶を持って登壇された塚田監事は「セルロイド関連技術の周辺」について述べられたのですが、その時に驚くべき数字を述べられました。

 一九三七年に日本は五九五トンの腕輪を輸出していたのです。これがどれだけ凄いかというと一つが平均して約二・五グラムですから、二億四千万個ということになり、これだけの数を生産するためには約0・1秒に一個を生産していたことになるわけです。

 この腕輪の色として好まれていたのが血と大地を意味する赤と黒でした。これはまだ植民地であったために独立を望む気持ちから好まれた色でした。

 ところが独立を果たすと好みの色も変わってしまったのです。そのために赤黒の生地が大量に余ってしまいました。そのために苦肉の策として赤黒のストライプの湯桶が作られたわけです。そのデザインが今でも使われていることを話されました。

 海外情勢の変化が思いもかけない形でデザインの変化につながったという話は興味深いものがありました。
 このような湯桶などの加工技術について述べられた中で、歪みが均質になるというセルロイドの特性などを分かりやすく説明されました。



 塚田監事は最初の講演者の中條技術委員長と同じ年の七十九歳。この二人の衰えないエネルギーには感服させられました。



 コーヒーブレイクの後には、富士写真フィルムの元代表取締役副社長上田博造氏による「セルロイドの写真フィルムからデジタル画像事業まで」と題する講演になりました。

 ご存知の通り富士写真フィルムは、ダイセル化学工業の中のフィルムを研究していた部門から発展した会社で、かつてダイセル化学工業の工場があった東京都板橋区には「国産フィルム発祥の地」碑が立っています。

 初期の写真フィルムにセルロイド(硝酸セルロース)を使ったのは当時としては自然な成り行きで、セルロイドの話になると必ず名前が出てくる春木栄氏が社長、会長へと就任していったのです。

 この写真フィルムは燃えやすいという欠点があったことから、酢酸セルロースへと代えられていきました。

 写真を撮るという行為は非日常的なハレの日に行う記念的なものだったのが、カメラの大衆化、レンズ付フィルムの登場、パソコンとデジタルカメラの普及、撮影のできる携帯電話の一般化、メール交換などにより日常的なものとなっていったのです。



 ファンの集いは、当初予定していた平井英一氏による実演という目玉商品が氏の病気入院により不可能となりましたが、その不足を補って余りあるものがあったのが実演も交えて精力的に語った三木監事で、硝酸セルロースと酢酸セルロースの違い、セルロイドの成型加工などについて話されました。

 途中で作った樟脳の船、髪飾りなどには特に興味を示された方が多かったようです。

 セルロイドの成型加工のために軟化させる必要があるが、そのためには直火ではなく金型などを熱して押し当てるということを実演されたのですが、やはり目の前で行われると説得力がありました。そのため出席された方々は身を乗り出すようにして見ていました。

 セルロイドというものは、取り扱い方さえしっかりしていれば決して危険なものではなく、驚くほど長持ちするものであると力説されていました。



 講演の後に行われました懇親会は、セルロイド産業に携わっていた方たちの同窓会、セルロイド愛好者の親睦会といった感のある和気藹々という言葉がぴったりとくるものでした。

 そのためか出された食べ物の無くなり方が早く、特に今回初めて出された蕎麦とカレーが好評でした。

 途中で立花茂生氏による尺八演奏があり耳を傾ける姿が見られました。尺八の接合部にはセルロイドが使用されていることから今回のご出席となられたわけですが、集いにも参加されて三木さんの話に興味深そうにされていました。



 来年には大阪で集いを開催する予定となっていますので、今回に負けないぐらい多数の方々のご出席を熱望しております。また出版事業も本格化していきますので、今後ともセルロイドに対するご声援をお願いしたいものでございます。



著者の松尾 和彦氏は歴史作家で近世、現代史を専門とし岡山市に在住する。


当日の様子



著者 松尾 和彦 氏
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